【第五章 現代マンガ文化における女性作家の位置づけ】

「場所がない」から「選ぶ投稿先」への変換

 1960年代から始まった女性マンガ家の青年コミック進出は、マンガの拡大と共に急速に拡大した。特に、80年代以降、表現の幅は劇的に広がり現在のマンガの多様性に女性作家は欠かせないものになった。いや、現代のマンガ文化は描き手が男性だろうが女性だろうが関係ないと言ったほうがいいのかも知れない。マンガがたくさん溢れている中、重要なのは作者の性別ではなくて、作品の質の高さである。
 では“ジャンルの枠組み”はもう関係ないのか。「ジャンルの枠組みとは、単にマーケットのセグメントにつけられたものであるにもかかわらず、表現上のスタイルの分類機能も果たしているが、それも明確に一致しなくなってきている。」と伊藤は述べているが、 なぜ未だに枠組みは存在するのか。
 岡崎や安野はかつて、描きたいものが描けないことでジャンルの壁に悩まされていたが、現在の安野は描きたいものに対して「少女」や「青年」などのジャンルを「選んで」いる。近年青年誌でデビューする作家もはじめから青年誌を選んで投稿している。安野がマンガを“クロスオーバー”する中、ガンガン系がついに“ボーダレス”なマンガ雑誌をとして歩み始めている。「少年」「少女」「青年」「レディス」というジャンルの縛りは、いつかなくなるのか。

なぜ、ジャンルの枠はなくならないのか

 第四章まで、女性作家が既存の表現手段を打ち破ってジャンルの壁と戦い続けた歴史を見てきた。戦後以降に発展してきたマンガのジャンルと、新たなマンガを開拓してきた女性作家は長年静かに激しくぶつかり続けてきたが、90年代以降はジャンルの壁はもう越えられないものでなくなった。現在は、女性がどんなマンガを描いていようと誰も気にとめないし、作家の性別を知らないことも普通である。女性は全てのマンガジャンルに対して解放されたと言っていいだろう。それは、時代の先を行く彼女たちの作品が読者に支持されたことと、読者に応えるためにジャンルが細分化されたこと双方に起因する。もうジャンルの上での「差別」はほぼ皆無である。女性が青年コミックでラブコメを描こうが、時代劇や麻雀ものを描こうが、それらは面白いかどうかで読者に選ばれる。シビアで限りなく平等だ。「女性がこんなものを描いている」とちやほやされて注目を浴びるようなことは現在ほとんどない。
 ではなぜ、ジャンル枠組みはなくならないのだろうか。女性がジャンルの壁を越えられるようになった今、果たして『壁』は必要なのか。「青年」「少年」「少女」「レディース」、これらのジャンル分けは何のために存在するのか。少年マンガにしても、『週刊少年ジャンプ』の読者に制限年齢はないし、作品によっては女性により支持されているものもある。逆に男性が少女マンガを読むことも、奇異に見られることもない。ジャンルの枠はもう要らないのではないか。

 この問いに対して、「描き手」「読み手」「発信者(=編集者)」それぞれの視点から分析する。

 まず、「描き手」であるマンガ家だ。マンガ家達はジャンルの枠があることでどんなメリットがあるのか。あるいはどんなデメリットがあるのか。今まで見てきたように、描き手は表現したいものとジャンルの枠でしばしば衝突を起こし、時にはジャンルから“追い出し”をくらうこともあった。しかし、現代では追い出しをくらっても少なくとも描く場所に困ることはない。例えば矢沢あいが、リアルな少女の幸福を“コンドームの袋”で表現したければ、「それは青年誌で描いてくれ」と今なら言われるまでであろう。(『ご近所物語』のモザイク事件」より。少女マンガ誌『りぼん』で連載されていた「ご近所物語」で、主人公・実加子とツトムの幸せなシーンにこのような表現をしたところ、編集サイドから「コマを削る」と激怒された。このことで、矢沢自身は「もう『りぼん』では描かれへんと思った」と当時の心境を吐露している。そして「下弦の月」以降『りぼん』を離れることになる。)むしろジャンル枠の制約こそが、作品の面白みを引き立てることすらある。矢沢の場合は、“幸せの象徴”にモザイクをかけて「少女マンガだからお見せできません!」という冗談に泣く泣く描きかえた が、「少女マンガとはそういうもの」や「少年マンガの主人公がそんなことするな!」という類の表現はジャンル枠がなければそもそも成り立たない。どんなジャンルも選ぶことができる今だからこそ、枠の中で“遊ぶ”ことができるのだ。そうした遊びや、既存の表現を打ち破る姿勢がむしろ新たなマンガの誕生につながるのだ。少女マンガの枠を打ち破ろうとして、生まれたのがヤングレディスやBLだった。長年戦ってきたはずのジャンル枠は、むしろ新たな表現を生み出すのに必要な要素なのだ。

 そのように、枠と表現の戦いの結果、枠を増やすのは「発信者」である編集者である。戦後、日本のマンガが発展した経緯について“大手出版社によるマンガの牽引”を弘兼が指摘しているが、「大手は、きちっとマーケティングをするんで、団塊の世代がちょうど中学生にあがって自力で漫画を買えるようになると、株価分割じゃないですけど(笑)単価を安くするために、それまでの月刊から週刊化した。」 という発言もしている。
 ジャンルの枠組みを作っているのは、当たり前だがマンガを発行している出版社および編集者たちだ。彼らが、“ちきっとマーケティング”したのはベビーブーマー世代が680万人という巨大な市場となりえるものだったからである。そこから青年誌やヤング誌といった枠組みが創られたのも、大手のマーケティングの賜物なのである。モノを売るためにターゲットをある程度絞るのは売る側としてごく普通のことである。そしてターゲットを明確にするためにタイトルに“少年”と付けるのである。
 しかし、66年『週刊少年マガジン』が100万部を越えたときには既に、ターゲットは純粋に「少年」だけに絞られることはなかった。「少年」だけでは、それまでの売上、つまりベビーブーマー世代が「少年」だった頃を越えられないからだ。そこで出版社はベビーブーマー世代の“卒業”を引き伸ばしたのである。少年マンガが劇画化し、「大人がマンガを読む」現象が生まれる。既に60年代終わりから、ジャンルの枠組みとターゲットの不一致は始まっている。しかし、「少年」という枠組みがある以上、表現できるものの限界点は常に存在する。
 「少年」と看板を掲げながら、大人の読者の満足に答えようとするとどうしても性描写など刺激を入れなくてはウケない。それは、限界ぎりぎりのところで発信される。ただし、その限界点も連載作品によってジャンルという環境そのものが変化するにつれて、変化する。そうして一定の刺激は少しすれば、すぐに刺激でなくなる。すると、さらに上乗せされて刺激が加味される。これが、枠組みがあるにも関わらずターゲットが不一致を起こしている理由である。その繰り返しで、ついに少年マンガとしての限界点に収まりきらなくなったとき、新たなジャンルが発明される。少女マンガにも同様の事が言える。

 では「読み手」はどうだろうか。

 読み手側は大手出版社の“策略”もあって、ジャンル枠に対して全くはみだしていることが多い。『週刊少年ジャンプ』は少年から大人(と言うよりいい年したおじさん)、そして女性までも捉えて全く“少年”などではない。勿論メインターゲットは少年たち(小中学生)だが、熱心な“違った読み方”をする女性読者のおかげで大ヒットしたマンガもたくさんある。「テニスの王子様」も「やおい」という“違った読み方”がされなかったら、ミュージカル化され、それが回を重ねる程の大ヒット作品にならなかったのではないか。このように、日本の読者はジャンル枠がありつつもそれには全くお構いなし状態だ。実は、マンガにジャンルがあると言うこと自体が日本特有だが、その上読者層もバラバラと言うのは、他国から見れば理解されがたいことだろう。何故日本人はジャンルを無視してマンガを読むのか。それは、マンガが誰でも買えるというところにポイントがある。中野によると、

「60年代初頭の子供たちは、自分の小遣いでマンガを買っていたと考えることができる。」

 という。それに関して増田悦佐は、

「(欧米の)子どもが自分の判断で買いものに行けなくなったのは、クルマ社会で必然的に起きる大都市中心部の犯罪多発地帯化と、郊外住宅地の座敷牢化の直接の結果だ。(中略)平和な戦後日本は、世界で初めて日没後の社会を子どもたちに解放したと言っても良い。親がついていればいい子ぶってなかなか本音を表に出さない子どもでも、子ども同士で自分の好きなものを買いに行ける社会では、本能をむき出しにする。」

と付け加えている。

 確かに、子どもが自由に買える環境があったからこそ、マンガ市場は発展したと言えるだろう。それが、「マンガを買う」習慣を生み、「大人が習慣的にマンガを買う」現象を発生させた。特に子どもの“背伸び”が時にいい影響を与えることもある。大人の見てないところで、こっそり「いけない」と思いながらマンガに親しむ。そうやってマンガを通して大人の空気感や暗さを知り、時にはマンガへ目覚めるきっかけになる。
 安野や内田を始め、プロのマンガ家は“背伸び”をしていたり、“少年マンガっ子だった元・少女”がたくさんいる。『COM』の岡田史子が24年組に影響を与え、24年組を読んで育った世代もまたマンガ家になる。このような連鎖が様々な作家のヒストリーから見てとれる。とりわけ、『ガロ』、24年組、高野文子などから影響を受けたと語るマンガ家は多い。
以上で、「子どもと大人」という観点で読者がジャンルに縛られない理由は説明できた。

 では、男女間では、読者はなぜジャンルを飛び越えるのか。
 まず、女性が男向きとされる青年コミックや少年マンガを読む事について。先程書いたように、女性はしばし“違った読み方”で少年マンガを楽しむ。つまりは、少年コミックを「やおい」に読み替えて“萌え”るのだ。杉浦によると、そのような読み替えは80年前後の横山光輝原作のアニメ「六神合体ゴッドマーズ」頃から注目されるようになったとされる。 そして、『週刊少年ジャンプ』に連載されていた「キャプテン翼」ブームが女子にも火がつき、女性向け同人誌が多く作られるようになるきっかけとなった。その後も、「スラムダンク」や「テニスの王子様」などが読み替えの対象となり、女子が少年誌を読んでいても不思議なことではなくなってしまった。勿論、『ジャンプ』や他の少年マンガ、青年コミックを読んでいる全ての女性がそのような読み方をしているわけではない。
 例えば、『ビッグコミックスペリオール』は読者のうちなんと30.7%が女性である。 青年誌も意外と女性の支持が多い。ドラマ化などされて原作を読みたいと思う読者や、ただ単純に面白いマンガを求めて読んでいる読者も多いのではないか。
 逆に男性読者だが、少女マンガが近年のヒットによって読まれることが増えたが、実は70年代からわずかだが男性読者は存在したと言われている。70年代の24年組の活躍していた頃は、一部のマンガマニアの男性も一目置いていたというわけだ。また、近年の“腐女子ブーム”の影響を受けてか、“腐男子”(ふだんし)、“腐兄”(ふけい)と呼ばれるBLを嗜好する男性も登場した。

いずれにせよ、女性ほど多くないが男性も女性向けのマンガを読むことはあると言える。



以上、「描き手」「発信者」「読み手」の視点をまとめてみた。

 簡潔に言えば、

描き手・・・枠があるからこそできるマンガがある。枠に囚われていないようで、実はかなり囚われている。

発信者・・・枠を始めに作ってしまったが故に、売上確保をするのが困難になってしまった。そこで枠を保持したまま“枠外”の読者も意識して誌面を作った。そのやり方が枠そのものを拡大・発展させ、新たな枠の誕生につながった。

読み手・・・面白ければあるいは話題になれば歳も性別も関係なく何でも読んでしまう。また時に読み方を変えて違った楽しみ方をする。

 ジャンルの枠組みがなくならない理由を一言で言うのは大変難しいが、以上の要素からはこのようなことが考えられる。
 現代のマンガは、一定の枠に対してターゲット層やコンテンツの内容が枠からぶれているように見えるが、実は根底には確固とした暗黙の了解という“枠”が存在している。この暗黙の了解があるからこそ「はみだす」面白みがあったり、時に「型破り」なマンガやマンガ雑誌が生まれるのだ。 読者は“枠”の存在を無意識に認めているからこそ、「はみだしたもの」を面白がる。そしてターゲットの“枠”から外れたものを好んで読む。それは、マンガの面白さを追い求めるが故の純粋な姿なのではないか。

 これからも、ジャンルの枠組みは“なくなりそうでなくならない”、と筆者は考える。

女性作家とマンガジャンル

最後に、論題であった青年コミックを描く女性作家についてまとめる。マンガ産業の発達とともに複雑化するジャンルの枠組みを彼女たちは何度も越えてきた。その「表現したい」という強い想いが時に葛藤を生み、時に思わぬ形で注目されたりした。あるいは、その想いは新たな表現を開拓し、後継者たちに多大な影響を与えた。

彼女たちのバイタリティが、日本のマンガを世界一面白いものにした。このことは、紛うことなき真実だ。

終。




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