【第一章 青年コミックのルーツ】

 「青年コミック」と一口に言うが、その基準というのは実は非常に曖昧である。なぜなら、単純に『ヤング○○』と付けばそれが青年コミックと言うわけではない。あるいは、単行本の形で分けようとしても、内容や掲載誌などが女性向けであることもしばしばだ。 そもそも「青年コミック」とは、何を指すのか。それを考えるために、まず戦後間もない頃に発展した児童漫画と劇画の背景から説く。

 「児童漫画」対「劇画」

終戦後、漫画というものは、少年・少女ためのエンターテイメント、あるいは教育の手段のひとつといったポジションであり、決して大人が読むものではなかった。少年・少女向けの漫画は、何と終戦した1945年の12月に始まる。児童向け雑誌『少年倶楽部』、『幼年倶楽部』(講談社)での連載がもっとも早いと考えられる。 これに対し、大人の読む漫画といえば戦前・終戦直後は新聞や雑誌の片隅に載せられるような風刺画や「サザエさん」(46年連載開始)のような4コマ漫画が主流であった。そこへ54年に『文藝春秋臨時増刊・漫画読本』(文藝春秋)が発行され大評判となり、以後月刊化する。これは漫画だけでなく、小説や外国漫画の紹介なども掲載された総合文芸誌だった。
 55年、『漫画タイム』(白羊書房)、56年『週刊漫画TIMES』(芳文社)、など大人向けのマンガ雑誌が創刊された。内容は、漫画と実話、ヌードグラビアが主で、「低俗週刊誌」として指弾された。 こうした流れが漫画雑誌で起こっている中、50年代中頃から大阪の貸本漫画界で、さいとう・たかを、佐藤まさあき、辰巳ヨシヒロらが“劇画工房”を立ち上げ、劇画という新しいストーリーマンガのスタイルを創りあげた。これにより、「漫画は子供のもの」というそれまでの暗黙の了解が崩れはじめる。 劇画はシャープな線や荒っぽいタッチ、暗い画面など見た目の特徴は様々あるが、中野は『最大の特徴は「正しい者が勝つ」「正義の味方は悪人をも許す」といった大人から見た子供のユートピア思想を否定した』ことだと指摘する。
 こうして、戦後直後の漫画ジャンルは児童漫画と大人向けの劇画という2つのみで図示することができる。(図1)それが、60年代に入り、流通が貸本から雑誌に移るのと平行して漫画ジャンルの構造は複雑になる。

図 1

『ガロ』と『COM』の役割

 1964年、それまでの貸本マンガ(漫画)作家(白土三平ら)の受け皿として雑誌『月刊漫画ガロ』(青林社)が創刊される。マンガ発信の場が貸本から雑誌へ移る過渡期のことだ。内容は、先ほど述べたように少年よりも年齢層が上の大学生らの支持を得る。発行部数こそ少ないもののマンガを読んで育った「文学青年」ならぬ「漫画青年」に熱い支持を受けた、いわゆるマニア誌としてのジャンルを確立した。そして『ガロ』の後を追うように67年に虫プロ商事から『COM』が創刊される。『COM』は手塚治虫作品が中心となるものの、両誌とも発表の機会が少ない若手を多く起用し、より実験的な作品を掲載していた。
 これに対し、大衆寄りの青年向けマンガ雑誌として67年『週刊アクション』(双葉社)、68年『ビッグコミック』(小学館)、『月刊ヤングコミック』(少年画報社)などが創刊される。ちなみに、『ヤングコミック』の創刊号のキャッチコピーは“若い男性のための劇画雑誌”であり、それまで貸本漫画というマイナーな世界でのみ隆盛していた劇画というものが世間に流通するきっかけとなった。これにより、かつての劇画の発表の場であった貸本産業は縮小することとなる。
 二項対立だったジャンルに、新たなジャンルが加わり(図2)、流通形態も以後は雑誌が主流となる。

図2

70年代、劇画雑誌の大衆化と三流劇画ブーム

 さらに、1970年代以降は大人がマンガを読むことが若者カルチャーとして定着する。70年、『週刊少年マガジン』連載の「あしたのジョー」の主人公のライバル・力石徹の告別式が講談社講堂で開かれ、800人もの参列者を集めた。「大学生が漫画を読む」現象が新聞で取り上げられるようになったのはこの頃である。
 当時の学生・社会人がなぜマンガを手放さなかったのか。それには出版社側の事情があった。60年代末に100万部を超えるほどの市場となった少年誌のさらなる拡大を目指した出版社は、数が少ない次世代読者を取り込むより、現時点での読者、つまり若者となった団塊世代層をターゲットに選んだ。彼らを引き離すまいとしてマンガの内容を高年齢向けに設定したのだ。「幅広い世代が楽しめる少年マンガ」は、70年代から存在する日本独自のスタイルであった。
 また子供よりもお金のある大人読者をターゲットとしたマンガ雑誌の創刊もそれと同じ動きである。72年に『ビッグコミックオリジナル』(小学館)が創刊される。『週刊漫画アクション』の「子連れ狼」(小池一雄・作、小島剛夕・画)や「同棲時代」(上村一夫)、『ビッグコミックオリジナル』の「あぶさん」(水島新司)や「三丁目の夕日」(西岸良平)などがヒットする。
 そんな中、70年代中頃から中小出版社も続々と劇画に参入する。特に、75年創刊『劇画エロジェニカ』(海潮社)、『劇画大快楽』(檸檬社)、77年創刊『劇画アリス』(アリス出版)は「三流エロ劇画の御三家」と呼ばれていた。彼らは、敢えて「三流」と自称することにより、明確にエロを志向し、『ビッグコミック』などのメジャー誌では不可能だった表現の自由を獲得した。
 図示すると、青年コミックのメジャー化の裏に三流劇画が付随している形だ。尚、73年に『COM』は休刊し、『ガロ』も「カムイ伝」の終了により縮小傾向にあるマニア誌の70年代である。(図3)

図3

※児童漫画は、60年代後半から『週刊少年ジャンプ』など週刊誌の創刊ラッシュを迎える。尚、「少年マンガ」「少女マンガ」の住み分けは、50年代から始まっていており、70年代にははっきりと差別されていた。

80年代、ヤング誌創刊と細分化路線

 1980年代は新青年誌と呼ばれる少年誌と青年誌の中間層ターゲットのコミック誌、通称「ヤング誌」が創刊ラッシュを迎える。集英社『ヤングジャンプ』(79年)を皮切りに、小学館『ビッグコミックスピリッツ』、(80年)講談社『COMICモーニング』(現『モーニング』)(82年)が創刊される。従来の青年誌で主流だった劇画色が薄まり、若い世代向けに恋愛・青春をテーマにした作品が多く、『ガロ』などで活躍していたニューウェーブ系の女性作家の登用も見られるようになる。かつての劇画は、主に“戦う男”が描かれていたものが多く泥臭い印象であったが、新青年誌は、恋愛・仕事などより実生活に近い内容が多く読者の共感を呼びやすいものだった。
 さらに、85年以降は集英社『ビジネスジャンプ』、『スーパージャンプ』(85年)、講談社『アフタヌーン』(86年)、小学館『ビッグコミックスペリオール』(87年)など、既出の雑誌の姉妹版として隔週・月刊誌が次々に誕生し、読者層の隙間を埋めるように様々なタイプの雑誌の創刊が相次いだ。(図4)


図4

                                   

 90年代以降もヤング誌の創刊は年に数誌あるが、スクエア・エニックス社『月刊Gファンタジー』(93年、当時は『月刊ガンガンファンタジー』)、アスキー社(現・エンターブレイン)『月刊コミックビーム』(95年)、幻冬舎『コミックバーズ』(96年)など小学館・講談社・集英社の三大出版社以外の創刊も目立ち、確実に読者を獲得しているのが90年代以降の特徴と言える。

 

 以上が、青年コミック誌の概略である。
 2章以降、青年コミックとして考えるのは、60年代以降の劇画誌、『ガロ』、『COM』を筆頭とするマニア誌、80年代以降のヤング誌(新青年誌)とする。
 尚、4コマ漫画誌に関しては、マンガの歴史上大きな影響を与える特筆すべき事項がないので、今回は触れないこととする。しかし、4コママンガから多くの女性作家が登場し、西原理恵子、小池田マヤ、伊藤理佐、こうの史代のように4コマ誌以外のジャンルで活躍する作家もいることは確かである。

レディスコミックとボーイズラブ(BL)コミック

 後々レディスコミック出身者も青年コミックに登場するので、簡単に触れておく。
 1950年代以降、単一のジャンルで拡大していた少女マンガから、80年代になり、ハイティーン・OL・主婦層向けのレディスコミックが誕生する(講談社『BE in LOVE』(現『BE LOVE』)80年、集英社『YOU』80年など)。レディスの登場により、性描写も含めた成人女性のラブストーリーや、自立、結婚、子育てなど今まで扱われなかったテーマのマンガが登場する。こちらも、ヤング誌同様、集英社『YOUNG YOU』、講談社『mimi』など同じ出版社からいくつもの雑誌が創刊され、細分化傾向にあった。
 また78年、『JUNE』(当時は『JUN』、マガジンマガジン社)という現在のボーイズラブの走りとも言うべき雑誌が創刊される。70年代の少女コミック全盛期に、「24年組」と呼ばれ活躍した竹宮惠子らが連載に名を連ね、主に少年愛を描いたマンガは「ジュネ」「お耽美」と呼ばれるようになった。本誌の小説コーナーも人気であり、小説道場からはプロの作家も誕生した。93年には、『b-BOY』(ビブロス社)が創刊され、「ボーイズラブ(BL)」という言葉が定着したのはこの頃とされる。「ジュネ・お耽美」と「BL」では“(男が男を愛するという)背徳的なものに対する憧れ”と“男だが恋人同士としての対等な葛藤”の点で識別されるという見方もある。


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